最近急がしぎみ&やる気ダウンだったので
あんまINしてなかったんですがそろそろ再開かのうー。
先週の週末に東インド会社プラッシー戦勝記念イベントがありました。

(`・ω・´)ゞビシッ!!
以下総督のお話


イギリスがインドに進出しておよそ100年後の、18世紀初頭。勢力を拡大しつつあったイギリス東インド会社は、衰退しつつあるムガール帝国から関税免除特権を与えられますが、これは現金収入の多くを関税に依っていたインドの地方領主に大きな打撃を与えました。
特に商業の盛んなベンガル地方(カルカッタ周辺)では、以前から関税問題で東インド会社ベンガル太守との対立が続いていました。
1756年、即位したばかりの若き太守シラージュ・ウッダウラは、フランスと手を結んでイギリス勢力をベンガル地方から追い落とす事を決意、太守に通告せずに要塞工事を進めたことを理由に、カルカッタを急襲し占領します。
この時、捕虜になったイギリス人は狭い地下牢に押し込められ、120名余が命を落としました。これを“ブラックホール事件”と呼びます。この事態を受けて、イギリス東インド会社は反撃のため翌1757年1月にマドラスから海路で会社軍を派遣、総司令官として、フランス東インド会社軍との戦いで名を上げた会社軍将校・陸軍大佐ロバート・クライヴ卿を任命しました。クライヴは1751年のアルコット要塞攻防戦で、わずか500の兵を率いて1万のカルナティック太守軍を撃退した英雄でした。クライヴは上陸すると直ちにカルカッタを奪還し、さらに進撃して3月にはベンガル太守と同盟するフランス東インド会社の拠点シャンデルナゴルを攻め落とします。驚いたベンガル太守は、一時的にイギリス側と講和しますが、フランスからの援助を受けて体勢を立て直し、再度カルカッタに進軍しようと試みました。
クライヴもカルカッタを出撃し、ベンガル太守軍と対峙します。
太守軍はフランス砲兵隊を含む5万の大軍、対する東インド会社軍はインド人傭兵(セポイ)1500を主力とする僅か2400の兵力しかありませんでした。
しかしクライヴは、密かにベンガル太守の座を狙っていたシラージュ・ウッダウラの伯父ミール・ジャーファル将軍と接触し、これを内応させる事に成功します。
かくして今を去ること250年前、1757年6月23日、カルカッタ北方 プラッシーの野で両軍は激突しました!激しい戦闘が繰り広げられますが、ベンガル軍の兵力の半分以上を指揮していたミール・ジャーファルが寝返ったため、太守軍はあっけなく潰走、敗れた太守シラージュ・ウッダウラは4日後に捕らえられ処刑されます。ベンガル太守に即位したミール・ジャーファルは東インド会社の傀儡となり、ベンガル地方の支配権は決定的にイギリスの手に移りました。
これ以降、イギリス東インド会社は軍事力によってインドの植民地化を進めていく事になるのです。


いつ聞いても総督のお話は為になりますです。
歴史ゲームっぽくていいよねー!